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弁才天は古代インドで河を神格化した神で大地に豊穣をもたらす農業神である。八臂像で岩上の蓮華座に坐す。弁才天の台下に稲積み上に白蛇を配し、眷属である十五童子も描かれている。背景の自然描写は豊かである。
行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。
それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。
当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602年)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させています。全国数多くのご信者様の強い要望により廃寺は免れる
明治時代、この島は大きく変化し、当山より都久夫須麻神社(竹生島神社)が分かれました。古来、現在の神社本殿を当山は本堂とし、本尊大弁才天を安置しておりましたが、明治元年(1868年)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、当山を廃寺とし神社に改めよという命令が下りました。
しかしながら、全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。本堂のないままに仮安置の大弁才天でしたが、昭和17年、現在の本堂が再建されました。神秘とロマンがいっぱいの神を斎く島本尊大弁才天は、日本三弁才天の一つとして、観世音菩薩は西国三十三ヶ所観音霊場の第三十番札所として参拝の方々の姿が絶えず、その詠歌の声が響いています。
月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を つむ心地して
古くは平経正が琵琶をひいて戦勝を祈願し、謡曲『竹生島』など数多くの音曲にも、この島の美しさがたたえられています。いまもなお、神秘とロマンがいっぱいに秘められています。
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